|退官記念論文|
私の歩んで来た道
電子工学科 吉 田 順 作
1。 はじめに工学部紀要委員の方より原稿執筆を依頼された。 きて何を書いたらよいか?と思い悩んでみたが,
やはり私の長い研究履歴をふり返り, その聞の挿話をはさんでの記述をしては……と考えて筆をとっ た次第である 。
2。 終戦からマイクロ波まで
私が北大工学部電気工学キヰを卒業してNHKに入ったのは, 昭和19年9 月, 終戦の1年前のことで あった。 直ちに兵事休職となり陸軍兵技技術候補生として神奈川県湖野辺の陸軍兵器学校に入隊, 4 ヶ月 の訓練を受けた。(本学の広岡筒二教授, 養田実名誉教授とはこの時の同期生である。 )翌20年2月 11日, 陸軍技術中尉に任官, 陸軍登戸研究所()11崎市生田)に赴任したものである。
登戸研究所というのは, 陸軍の非正規兵器の研究を担当する所で, 例の風船爆弾④をや った研究所 であ る。 私が配属になったのは通信機器研究のホハ研究室で, 2 月末所内で開催された③の祝賀会に,
参列したのを覚えている。 送受信回路の実験研究に従事した訳であるが, 戦力にならず仕舞い で終戦 を兵庫県小川村の同研究所関西分室で迎えたものであった。
昭和20年9 月上旬, 予備役編入の辞令を貰い復員, NHKに復職した。 技術研究所第2部(受信研 究)に配属となり, 受信機回路, 受信アンテナの研究を担当することになった次第でした。
戦後の混乱期で, 食糧不足, 物資不足が定常化し, 物価高騰の荒波が逆巻く世相の中で, 測定器を 修理したり自作したりして実験データを……といった 日々が続い たものでした。
昭和23 年12月, NH Kでもマイクロ波の研究を始めることとなって, 技術研究所に特別職制として ホ極超短波研究室か が設けられ, 原源之助, 鈴木桂二のお二人を中心とした8 名の研究グループが作 られ, 私も参加するよう命ぜられた次第でした。
漫然と基礎研究を…というよりは, 何か目標を定めてこれを指向する…というような研究の進め方 がよいのではないか1という事になって, テレビ中継を目標に選んだ訳でした。
予算獲得の為にもまずPRだというこ とで, 24年 5 月の技研公開にデモンストレーションをやろう と, 8 名が分担を決めて, 3GHzの送受信機を試作し, 研究室内のたかだか1 0m弱の送受信アンテナ 間距離でしたが , 本邦で初めて無線で伝送されたテレビ画像という事で好評を博したものです。 私は アンテナを担当し, 2mX1 m開口の電波レンズと, 1.2mØのパラボラを用意した訳でしたが, いま 思えば , 正宗の名万で刺身を…のようなパロディ的な光景であったものです。
25年6月だったと思い ますが, テレビ本放送も近いという事で, 銀座の三越会場でテレビ公聞の催 しがあり, 砧の技研スタジオからマイクロ中継をし, 中継機のお守りに交代で銀座三越の屋上に 会期 中つめていたものです。 たまたま私の当番の時に, 電波雑誌の編集部の男が現れて, 、マイクロ波の 特集をやる事になったので表紙の写真になる様なものを撮らせて下さいか と。 、まあいつだろう, そ こにあるパラボラアンテナでも撮りなグ と言うと, 、やっぱり人物が入らないと……' と頼まれた。
仕方がないのでモデルをつとめた訳だが, この時贈呈された雑誌が47年改築のため取こわす事になっ た旧居の屋根裏より出て来たものである。 ウッと息を飲み込む様な, 気品と教養に満ちあふれ, 活力 がにじみ出ているい、男の顔が現れ, うた、感慨にたえなかった次第でした。
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富山大学工学部紀要第39巻 1988
26年 6 月テレビジョン研究部 (送像, 受 像, 中継, 送信の4研究室)が創設され, 私達のグループ はテレビ中継研究室として研究を実施することになった。 いろいろな経緯があって東京でテレビの本 放送, 大阪, 名古屋で実験放送が開始されたのが, 2 8 年2月1日であった杭 これを目途に , 東名阪 マイクロ中継回線を実現すべ〈準備にとりか 、 ったのが, テレビ研究部創設直後からのことであった。
NHKがテレビ放送を開始するとなれば, 当然全国放送を考えてゆかねばならない。 この為には電々 公社(NT T)が計画中であったマイクロ波テレピ中継回線の建設を早急に実現してほしいという要 望を, この当時NHKよりNTTに出していた様であるが, NTTの返答がはかばかしくない…とい うので, それでは自営回線を作ろうということになったらしい。
4GHz帯で‘3W出力のTWT (進行波管) を東芝マツダ研究所で実用化したという話を聞いて, こ れをベースに4GHz帯の通り中継機 (被変 調波を中間 周波段階で周波数変換して送出 する中継機)を NHK技研と東芝との共同研究により実用化し, 双子, 牧の原, 大山, 名古屋, 霊山の5中継所に,
これを設置, 東京 , 生駒には送受 信端局を…という東名阪回線を作り上げた訳であった。
私の担当はアンテナであった。 中継区間距離最大 100kmという当時 としては破天荒の 長距 離中継 を実現するためには, 高利得の大関口アンテナ を用意しなくてはならない。 電波レンズとパラボラと が候補として考えられる。 私が学問的に興味を持っていたの は電波レンズの方であったので, 何とか ならないかと検討を加えてみた。 が, 山頂に設置するアンテナ としては, 台風時の風圧に耐える構造 が必要で、あり, この為にはパラボラしかない とい7結論になったものであった。 それで当時としては 最大開口の4 mØパラボラを 8 分割方式で横河橋梁(株) に1 2面作成してもらって各中継所に設置した もの であった。 水平垂直方向とも半値角が3。程度の高利得アンテナであるので, 設定時の方向調整が デリケートで, ある中継所ではサイドロープに方向を合せてしまい 、変だ変だ…' と いう騒ぎをおこ した事もあったが, 何と か2 8 年2月1日 の テ レビ本放送開始に間に合せることが出来た訳である。
このプ ロジェクトは, 技研が中心となって, NHKの技術部門より精鋭を集めた50名以上の人員で,
29年 9 月末まで実施されました。 我国における初めての長距離テ レビ中継回線の 実用化で, いろいろ 面白い挿話もありますが, 長くなりますのでこの辺でやめておきます。
30 テレビ帯域圧縮からVT R, ファクシミリまで
2 9年 10月よりは, NTTがやっと完成した東名阪マイクロ回線をNHKも使うということになって,
私達のグループは, 最も 面白い長距離中継の研究テーマを失うことになったものでした。
代りに選んだテーマが ‘テレビ信号帯域圧縮か といつものでした。 戦後Wiener, Shannon etcの著 作によって提起されたInformation Theαy (情報理論)が学会でブームを呼んでいる…といった時代 相でした。 テレビ信号というのは, 画素相関, ライン相関, フレーム相関という3次元の相聞の強い 信号で, 非常に大きな冗長度を持っている信号です。 この冗長度を除去して伝送するうまい符号化処 理を実現できれば, 1/10乃至1/100の帯域圧縮も夢ではなかろう…と, 取組んだ訳でした。 研究室 名 をテレビ伝送研究室と改め, 研究室主任に私, 担当副部長が鈴木桂二氏, 研究室員が井口喜雄, 安東 平一郎, 木村悦郎, 石引道朗, 桑田徳治, 稲津稔, 佐々昂一, 岩沢嵩といった陣容だったと思います。
効率的な信号処理をするためには, 記憶装置(Memory)と遅延装置(Delay)か不可欠のものです。 1 ライン遅延装置として当時東大第2工学部助教授だった尾上守夫先生のアドバイスを受けて , 溶融水晶を 遅延素子として開発しましたが, 伝送信号帯域巾, S/Nの点で, 限定した目的以外には使えぬもの でした。 でも1つの橋頭保を築いたという意味は大きし このあ と多角的に利用された様に覚えてい ます。
フ レーム単位での遅延装置としても使える記憶装置として, ①Xerography の静電記録 ②蓄積管 によるメモリ一 ③磁気テープ記憶装置の3つを取上げて研究を開始したのが, 昭和3 0年か31 年であ ったと思います。 ①について は基礎研究段階で見切をつけましたが, ②は米国製の管を使つてのデモ
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吉田:私の歩んで来た道
を技研公開時に出せる様になり, 相撲放送の駒どり再生に使えるという事で, 電子管研究部が乗気に なり, 低速度走査の改良管を開発して1-2年後の放送実用化につなげたものです。 画質の点では,
画像処理の目的には遠い ものでしたが。
③の磁気テ ープ記憶装置を取上げたことが, 以後私がVTRの研究にのめり込んでゆく端緒ーになっ たもので, 2年前に 日本応用磁気学会誌(Vol 9 No. 3 , 1985)に 、磁気記録と私砂 という題であらま しを書きました。 ご関心のあられる方にはそちらを参照.してい ただ〈事にして, 他の話に移りたいと 思います。
私達がテレビ帯域圧縮のテーマを選んだ時の目標は, 1つはVTRの実現でしたが, もう1つが、短 波によるテレビ国際中継' でした。 昭和 35年のローマオリンピックを目途に, KDDと共同研究を始 めたのが昭和32年頃であった様な気がします。 走査線数を減らして垂 直・水平方向の解像度を落す,
毎秒像数を落す, それでも足らぬ分は時聞をのばす, といった 、やれば出来る' に決っている案をベ ースに企画を進め, 出来得べくんば些少なりとも 、帯域圧縮処理の薬味' を入れたシステムを考えよ うという訳で苦斗を重ねたものでしたが, 結局のところは 、やれば出来る。 システムで実用化に成功 した次第でした。 この時, ローマ及び東京の端局におけるモニターに, NECの写真電送機を改修し て利用したもので, N ECのファクシミリグループとのおつき合いの始まりであ りました。
NHK技研で, トランジスタ式電子計算機 、砧1号。 を試作したのが昭和3 3 年でしたでしょうか。
帯域圧縮の研究に *コンビュータ・シミュレーション。 を…とい フことで大分トライしてみたもので したが, 演算速度が遅〈メモリ容量の小さなコンピュータでしたか ら, プログラミングの練習にはな ったものの実効は上がらなかったものでした。
昭和38年6月, 特別職制として記録技術特別研究室が創設され, 私が室長に任ぜられました。 担当 研究分野は, 磁気記録(録画と録音), 画像記録(ファクシミリ)でした。 ファクシミリ技術につい てのNHKにおける研究実績は皆無の状態でしたが, 、ポスト・カラーか として 、ファクシミリ放送砂 を意図する機運があり, 記録管を使用する電子走査ファクシ ミリをホーム端末とするシステムの基礎 研究を実施するということであった訳です。
記録管として静電記録用の静電記録管と, 電子写真記録用のF 0 (ファイパーオ プチック)記録管 の開発を, 電子管研究部の全面的な協力により進める一方, 受信記録装置の開発, 送像側の文字信号 発 生器の試作などを進めたものでした。 放送開始(いつになるのか分りませんでしたが)に備えて,
放送部門の方々に予備知識を持っていただこフと 、放送文化研究所との定例連絡会' を発足させるな ど私としては精一杯の努力をしたつもりでしたが, 要するに ‘時期尚早か ということであった様です。
折角苦労して開発した電子ファクシミリの技術を無駄にする訳にもゆかず, 業務用の局関連絡ファ クシミリとして実用化い たしましたが, 欲求不満の残ったプロジェクトではありました。
こ んな事で, 中間管理職の悲哀を味わいながらノイローゼ気味になっていた昭和 43 年 5 月, 交通事 故の奇禍に会い, 救急病院で入院1ヶ月, 研究の第一線を退〈様になったのは, 今か ら 考えて見ると 幸運であったと,思いま す。
以来人生観が少し変った様で, 、マイペースを崩 きぬか ことを第一義の価値感に置い て現在まで参 りました。
電子ファクシミりをやったお陰で, ファクシミリの研究集会 、実写研究会。 に加入, 昭和 47年にこ の研究会が発展して 、画像電子学会' が発足した折, 発起人の員数に加えていただき, 学会活動で多 くの知己友人を持つことが出来ました。 、禍福はあぎなえる縄のごとし" といえる様です。
4" あとがき
昭和54年1月31日NHKを定年退職。 翌2月1 日付で富山大学工学部電子 工学科応用電子講座の教 授に任ぜられ, 以来9 年余, 若くて純心な, 素質のある学生達に固まれ充実した毎日を過してこれた
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富山大学工学部紀要第39巻 1988
事は, 非常な幸せで、ありました。
富山大学での9年間をふり返って見ても, 書き残しておきたい話題が幾っかございますが, 与えら れた紙面も過ぎましたので, 稿を改めて別にとりまとめることとし, この辺りで欄筆することといた します。
一以